昭和四十七年七月二日
御理解第十八節「此方の事を神々と云うが、此方ばかりではない、此所に参って居る人々が皆神の氏子じゃ、生神とはこゝに神が生まれるという事で、此方がおかげの受け初めである、皆んなその通りにおかげが受けられるぞ」
生神金光大神が教えられる、又は天地金乃神様が願いとされるところは、こゝのところだと思います。
金光大神の教えられるところ、天地金乃神様の願いとされるところ、それは皆んなもこの通りのおかげが受けられる、と仰せられる程しの、おかげを受ける事なのです、人間の言わば、最高の幸せと申しましょうかねえ、しかもその最高の幸せをお互い目指させてもらい、しかもその通りのおかげが受けられるのが、私共人間氏子である、どうでもその通りのおかげを受けたい、そこで生神金光大神のそのような教えに、言わば本気で取り組ませて頂いて、今日私がこゝでおかげを受けておるという事、そのおかげを受けておる様子を、皆さんが見て下さって、だからまあ金光大神とまではいかんでも、大坪総一郎が受けておるおかげを、いわゆるこの通りのおかげ位は、だから誰でも受けられるという事なんです、だから今日私はそういうようなところを聞いて頂きたいと思うんです。
金光大神ならずとも、云うなら金光大神の教えを、本気に頂こうという姿勢を作って、信心をさせて頂いとりましたら、完璧という事は出来はしませんのですけれども、いさゝかでも、矢張り生神金光大神へ向って、一歩一歩進ませて頂いておるという事、そして、そんならこのようなおかげを受けておるという事、まず第一問題があっても、ひとっつも私はそれを問題と思っていない、という事だけでも素晴らしいでしょう。実際は問題はあるとですけれども、私はそれをひとっつも問題としてない、その問題のおかげで愈生神への道が又、一歩前進出来るとしか思ってない。
そんなら私の周囲の人間関係、人間関係でもう腹が立って腹が立ってたまらん、と云う事もなからなければ、情けのうしてこたえんという事もない程しに、まあおかげを頂いておる訳であります。
健康の上にもおかげを頂いて、日々の御用には、まあ差し支えがない程しに、健康のおかげを頂いとる、経済の面におきましても、決してそげん何十億という金を貯めておる訳でも、何でもないのですけれども、必要な時には必要なだけの、まあ云うなら、これが本当の意味に於いての、経済力じゃないでしょうかねえ。
例えば十億の金持っとったっちゃ、十億の金出さにゃならなかったら、おしまいになるですもんねえ、もう後はなあ似も無いとですよ、ところが私共の場合は、もう出しても出しても、いわゆるそれこそ、使うて減らぬ金百両なんです。こんな素晴らしい経済力を受けておる者は、ばさらかゴロゴロはおらん。
そんならけれども金光様の御信心頂いて、私の云う信心を皆さんが身につけていって下さるならね、そういう経済力も必ずつくのだと、そういう、ひな型的なおかげは皆さんも受けて居られます。
こと欠がないでしょうが、必要な時は必要に応じて、ちゃあんとおかげ受けてるでしょうが、それは本当に親先生任せで、いわゆる任せて縋っておるという程しの人達であるなら、もう絶対おかげ頂いているです。云うなら人間の幸せの条件としてです、健康、人間関係、そして経済力、まあ大体この三つがね、おかげ頂けたら大体人間の幸福の条件というものは、まあ揃ったようなものじゃないでしょうか、その上、私には問題が無い と云うて、普通から云うならば問題はもういつもあるのです、けれども私はそれを問題だけれども、問題にしてないという事なんです、素晴らしい事は、いやその問題を通してです、私は一段と、生神への道を精進させて頂く事が出来る、と云う事なんです。ですからそれは問題じゃないという事になってくるでしょう、そういう素晴らしいおかげの頂けれる道なのである。
御神誡の一番最後に、「信心する人の眞の信心なき事」と、信心しておっても、金光様の御信者というのは沢山あります、けれども私は眞のおかげが頂けてないとするなら、それはどうもおかしいと思うですよね、お金に難儀をして居ったり、人間関係に悩んで居ったりするような事ではね、私は眞の道を履せて頂いておる者とは云えないと思う。
だから愈より本当の事を分からせてもらい、本当の道を歩かせて頂こうという心に ならなければならないと云う事であります。
私は今朝方お夢を頂いた、もうあんな、あれは何と云うでしょうかねえ、オ―ケストラと云うですか、もう沢山な楽器がそろって、演奏しているんです、それがこう映画のようです、平面的に見えるそれが、見せて頂いとりましたら立体的になって、映画でこう前に出てくるとがありましょうが、それが私の目の前にパ―ッと、こう立体的に、もうその演奏して居られる一人一人の素晴らしい事、又楽器の素晴らしい事、そのリズムの素晴らしい事、もうそれはそれは本当にそれこそ、見たことも聞いた事もないという程しの素晴らしい、いわゆるリズムでした。
その ちょっとこっち見たところが舞台がある、その舞台でですね、尾上梅幸という歌舞伎役者が居ます、あの人が紋付袴を付けてね、そのリズムに合わせてね、舞を舞っているのです。あれは梅幸さんだなあと思わせて頂いとったら、あれは梅幸じゃないたい、あれは私たい と、大坪総一郎が踊ってる訳です、そのリズムに合わせて。私はそういうお夢を頂いてからです、合楽程素晴らしい縦横ですね、いわゆる平面的にでも立体的にでも、天地の親神様がそれこそ、合楽の為に動いているかと思われる位に、素晴らしいひとつの調子があるという事です、合楽には。
それはもう苦しいこと、悲しい事、それは様々ありますけれどもその事すらがです、ひとつのリズムにのって、やって来ておる、リズムにのってそれが行なわれておるところに、例えそれが悲しい事苦しい事であっても、これ程に間違いの無い働きの中にあっての事だから、と分かるです。
椛目で泰子が亡くなりましてからこのかた、妹と婿と二人でお参りして来ます、毎日、けれどもそれこそ、私がここから見せて頂いた スマ代が参って来たなと思いよりますけれどもね、もう本当に魂が抜けたのではなかろうかと、いうような様子なんです。
例えばたったそこから、こゝまで見えるだけですから、見えて、こゝのお広前へ向って歩いておるその姿が、心なしか、いや事実そのように見えるので私には、もう本当に魂の抜けたと云うのは、このような事であろうかと、本当に魂が抜けるようにあろうと、私は思います。
主人を亡くして二十五年間、随分あっちこっちから縁談もありました、けれども、もう本当に泰子一人にかけてきとりますからね、どういう話がありましても、見向きもしませんでした。
そして本当に泰子一人にかけて二十五年間、もうこれで本当に、やれやれ安心と思うのも束の間、その心の支えであった娘が亡くなったんですから、アッと云う間に魂が抜けるようにあるのも、本当に当たり前のことだと思います。
ですから私、その事を昨夜遅う、こゝへ御祈念に出て参りましてから、お願いさせて頂いとりましたらね、黒真珠を頂きました。
こゝでは会員という事を、色々な貝で頂きます、口ばっかりのごたる人は、ほら貝を頂く、仲々味のえゝのは、はまぐりのような、この人ははまぐりのような味のある信心をするなと思いよると、確かにそうです、と云うように、元神愛会と云ってましたから、会員の一人一人の事を、貝をもって、その人の信心性格といったものを下さる、同じ貝であってもね、もう食べるという事じゃない、おかげという事じゃない、中の真珠のそれがね、段々光を増していくと云うか、大きくなっていく事だけが楽しみの貝もあるという事ですしかもその貝の中でもです、いわゆる黒の真珠貝というのはもう、非常に少ない得難い貝とされております。
黒と云う事は、修行と頂かにゃいかんでしょう、スマちゃん、その修行ばやりぬかせて頂いてごらん、世にもまれなる、それこそ今日の御理解で云うなら、それこそ、生神金光大神を目指して頂ける程しのね、そういうおかげの頂けれる、それこそ心がです、魂が抜けたであろうかと云うような時こそ、本当の新たな魂が頂けるときなのだ、さあ―頑張りなさいよ と云うてやりたいような思いの御教えでした、昨夜
成程、あの人こそ黒真珠じゃろうと、私も思いました。ですからね、そういう例えば、人の真似の出来んような修行でもさせて頂いておる人が、本当に修行成就する時に、それはもう得難いものなんです、尊いものなんです。云うなら生神金光大神を目指させてもらい、みんなもその通りのおかげが受けられるけれどもです、そういうおかげの一番受けやすい状態にある人であり、ある時である訳なのです。皆さんどうでもね、ひとつ食べて美味しいという貝じゃなくてです、もう身はどげんでんよか、中がそれこそ もう光り輝く得難いものになって行けれる、自分で自分の心が拝めれるような状態を、いわゆる目指して。
昨夜の月次祭の御理解にも申しましたようにこゝには信心の稽古に来る所、その稽古がです、段々有難いというものが本当の意味に於いての有難い、自分の都合の良いときだけが有難いのではない、普通から云うたら、どんなに苦しゅうあんなさるだろうかと、思うような時でも、矢張りそれでも有難いという信心を、目指させて頂くという事が、とりもなおさず生神金光大神を目指す事なんです。
だから金光様の御信心は、み―んなそこを目指さなければならない、そういう目指しをもっての信心こそがです、眞の信心なのですだからその眞の信心にはね、眞のおかげがともなわない筈が無い、眞のおかげというのは、いわゆる人間の幸福の条件というものが、一つ一つたろうていく程しのもの、しかもいつも天地がバックである。小倉の初代、桂松平先生が、御本部御造営の願いを立てられて云うなら九州中の、小倉の出社関係に、いわゆる号令された。
「桂松平について踊れ」と仰った。いわゆる桂松平先生の、手になり足になりして踊った先生方は、みんなお徳を受けられた。久留米がしかり、甘木がしかりであった、もうそれこそお広前は留守にしてからの御用であった。
いわゆる桂松平先生の、云うなら頂いて居られる御神徳、今日私共が云う、ひとつのリズムとでも申しましょうか、そのリズムにのって一緒に踊られたという事なんです。今日私がお夢の中に頂いた縦横、私はもう本当に合楽の場合はですね、もうそれこそ、縦横たろうた神様の働きというものを、そこに感ずる事が出来るのです。これはいつの場合でもそうですが、そんなら今度の椛目の今日迄の後先の事を思うてみてもそうです、もう成程神様の御神意の中に、御守護の中に、神様のお計らいの中にあっておるんだなあと云う事を、思わずには居られんのです、もう一分一厘間違いが無いです。だから亡くなったというその事だけ位の事は、分からなくても、成程おかげの中にあるのだなあと云う事が分かるのです。
その周囲から起ってくるリズムと云うものが素晴らしい、私共はそれをずっと感じておるから、それこそお礼を申し上げねばおられない、と云う事になってくるのです。まあ、この例を申し上げるなら限りがありませんね、合楽のうえに起てくるひとつのリズムとでも申しましょうか、そのリズムにのって、だから私自信がそのリズムにのって踊っておるのですから、そんなら皆さんも、私の生き方をマスタ―して下さり、私の生き方に習うて下さり、それは少しはぎこちなくても、私の云うならば、云う事任せになって下さる、親先生の思いが分からせてもろうて、親先生の思いに添おうと云う状態になって下さる、もうそれで絶対リズムは、あなたの周辺に起ってくるです。ですからそのリズムにのっての生き方、今こそ私は大坪総一郎について踊れと、云う時ではなかろうかと思います。
私自信が今日、お夢の中に頂きますような、もうそれこそ、見た事も聞いた事も無い程しのです、かって。
信心の出来ないのに、神様のお働き下さる、その裏付けとでも申しましょうかねえ、どんな者でも合点せん訳には参りません程しの素晴らしい神様の働き、成程天地の親神様がバックだと云われるが成程親先生のバックは、天地の親神様だなあ、と思われる程しのおかげをです、こゝで皆さんが見たり聞いたりしておって下さる訳なのです。だから親先生任せになると云う事は、そのまゝ親先生が、天地のリズムに合わせて踊って居られる踊りに又、皆さんも踊って居られる、と云う事になるのですから、眞のおかげが、それに伴わない筈はないと云う事になります。
都合のよか時だけ任せるというのではない、もう一切が、手を上げと云われりゃ手を上げ、足を上げと仰れば、足を上げさせてもらえると云うだけの信心、それが段々スム―ズに、ぎこちないのが本当に、手の舞、足の舞というように、いわゆる私に合わせて、云うなら合い舞が出来るようなおかげでも、頂かせて頂いたらです、こゝに最後にありますように、皆んなもその通りのおかげが受けられる、という事になるのです。
此の方ばかりが、こゝで云うなら大坪総一郎だけじゃあない、私について踊る限りです、私と同じようなおかげが受けられる
桂松平先生の云うならば、について踊った方達がです、矢張り桂松平先生が受けられたようなおかげを、久留米に於いてしかり、甘木に於いてしかり、おかげを受けられたでしょうが。
私は本当に今こそね、大坪総一郎について踊れと、云う時であり又、踊らせて頂かねばならない時だと思います。
今日はこの十八節を、そのような風に頂きました。ひとつ、特にそのようなおかげが受けられるという事を、生神金光大神ならずとも、その教えを少しでも、本気で行ずる木にならせて頂いて、頂いておる私のおかげを皆さんに見てもろうて、そして私の信心のリズムに合わせた動きを見て頂いて、皆さんもその通りの動きにならせて頂こうと、いう気にならせて頂くという事。
自分の都合ばかりを云わずに、ひとつ自分の都合は一辺かなぐり捨てゝ、神様のご都合に生き抜こうじゃないですか、それがその通りのおかげの受けられる基礎になるのです。それがそのまゝ大坪総一郎について踊るという事になるのです。
どうぞひとつね、もう本当に打ち込んでご覧なさい、あなた方の周辺にこれが、ひとつのリズムであろうかと、もうリズムが出てくるとです、いわゆるその調子です、調子にのっていかなければおられない事になってくるのです、のらなければ馬鹿らしいです、のらなかったらかえってやりにくいです。
浪花節でも影の三筋というひとつのリズムにのるから、あゝいう良い声も出てくる訳です、リズムにのって浪花節を語る。あれがリズムがなかったら、あんなに良くは語られない。
もうリズムにのっての日々でありたい、天地の親神様が奏でて下さるところのリズムをね、私は段々体得させて頂いた、だから私の云う通りしよりゃ、そのリズムが分かってくるようになる、そういうおかげを、いわゆるみんなもその通りのおかげが受けられるというおかげを頂きたいと思います。 どうぞ